野口泰弥

本紹介 『こころの人類学:人間性の起源を探る』煎本孝/ちくま新書

 本書は北海道大学名誉教授である著者の約半世紀にわたる各地でのフィールドワークに基づき、副題の通り、人間性の起涼を探求した書籍である。ここでいう人間性とは一言でいうと「利他心」のことだ。利他的行動自体は「子育て」という形で、人間以外の生物にも見られる。このような母子間の本能的な利他的行動を源泉としながらも、本能的な働きそのものではなく、利他の対象をより一般化し、制御し、自覚的な働きとしたものが人間としてのこころであると著者は述べる。

 この利他心の起源として著者が重視するのが「初源的同一性」と「互恵性」という概念である。初源的同一性とは、本書の第一章で、カナダ・インディアン(明記されてはいないが、北方アサバスカンに含まれるチペワイアンだろう)の神話から、著者が導出する概念である。これは人間と動物とが異なるものであるとみること(二元性)と、同一のものとみること(同一性)が思考の中で併存していることであり、すなわち、二元性と同一性との間の矛盾を解消しようとする概念である。北方世界にも広くみられるアニミズム(自然のあらゆる事物に霊が宿るとする信仰)は、著者によれば、初源的同一性という説明原理に基づく、自然の人格化と見なすことができるという。そして、狩猟民の間ではこの論理が、人間が動物を殺して食べると同時に、動物の超自然的本質である人格から肉を贈り物として受け取り、人間が儀礼などを通じて彼らに返礼するという、人間と動物との間の、互いに恩恵を与え合う関係(互恵性)という狩猟の世界観を成立させているという。

 自己と他者は異なるものではなく、本来同じだという考え/感覚が、自己と他者の関係を対立的なものではなく、互恵的なのだというこころの働きを生む。他者への思いやりや慈しみといった利他心は、こうした人間性に根差しているというのが筆者の主張だ。そして、その起源は、狩猟活動と強く結びついているため、20~30万年前の現生人類の誕生にまで遡るが、こうしたこころの働きがはっきりと表現されはじめられたのは、第二章でヨーロッパの洞窟壁画をもとに考察されるように、1万~4万年前の後期旧石器時代だという。

 思いやりや慈しみ、慈悲、平等性といった人間性を、読者は著者と共に、自然環境や生業、そして社会構造が異なる様々な人類学のフィールドを通じて考えていくことになる。第一章で典型的な森の狩猟民であり、平等主義が強いカナダのインディアン、第二章でフランス南西部、スペイン北部の後期旧石器時代の狩猟民が描いたとされている洞窟壁画、第三章でインディアンより序列化が進んだ狩猟民社会であった北海道アイヌの熊祭り、第四章でロシア・カムチャッカ半島のトナカイ遊牧民コリヤークの世界観、第五章でモンゴル遊牧民のシャマニズム、第六章、七章でチベット仏教の中心地であり、王国という複雑社会であるインド・ジャンムー・カシミール州のラダックにおける仏教とシャマニズムや宗教儀礼が扱われ、第八章で結論が述べられる。

 利他的行動は文化人類学だけではなく、近年、行動生態学や霊長類研究などでも盛んに議論されている領域である。本書は新書という一般向けの書籍とは言え、著者の豊富な学識やフィールド経験に基づき、オリジナリティの強い新鮮な知見を提供している。北方世界に関心がある方だけではなく、動物と人間の関係、人類の進化、人間のこころなどに関心がある方にも広く推奨したい。

(初出:北海道立北方民族博物館友の会季刊誌 Arctic Circle 112/2019.9.20)

2020.5.8

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