本書は、環北太平洋地域で先住民のことばを研究している言語学者18名によるエッセイ集である。「環北太平洋」というのは耳慣れない言葉であるが、サハリン、アムール川流域から東シベリア、ベーリング海を経てアラスカ、アメリカ北西海岸に至る地域一帯を指す。一括りにされてはいるが、その範囲は広汎で含まれる民族やことばも多様である。
「言語学」に対して難解というイメージを持つ方もおられると思うが、本書はまさにフィールド・ノート(メモ帳)のように、研究者が現地調査で見たり聞いたり感じたりしたことを綴った体験記である。研究者の「先生」となる先住民の人びとの人柄や日常生活、調査風景、そしてそれぞれのことばの現状や、それに対する研究者の想いなどが生き生きと語られている。
もちろん、言語学者のフィールド・ノートだからやや専門的な文法の説明なども含まれている。しかしじっくり読んでみると、ことばの持つ多様性に言語学の面白さの一端を感じることができる。
例えば、ユカギール語には「橋」がないが、それは「川は舟で渡るもので、橋を架けることはしない」からである。イヌピアック語では、「網」という単語に「接尾辞」がとんどんくっついて、「今では長いあいだ網を使わなくてもよくなったと思う」という長い単語を作ってしまう。ツィムシアン語では、人間、動物、長いものなど数える対象に応じて6種類の数詞が使い分けられる。
また、北方諸民族に雪を表わす語彙が多いことは知られているが、シベリア・ユピック語では、「上を歩いても安全な氷」だけで21の異なる語があるのをはじめ、海の氷を表わす語が二次的派生語も含めて百近い数になるという。加エ・調理された魚を表わすイテリメン語や加工トナカイ肉に関するチュクチ語などにも同じ傾向がみられる。
こうしたたくさんの語彙は、そのことばを話している人びとの生活や環境、文化を反映したものである。また、それぞれの語彙の違いは、同じものに別の名を充てているというだけではなく、自分を取り巻く世界をどうとらえるかといった認識の違いを表わすものでもあるという。つまり、ことばの豊かさは、まさにその背後にある人間の文化や認識の豊かさを示しているのである。
しかし、本書にことばの多様性を感じる一方で、これらのことばがおかれる現状の共通性は気にかかる。ロシア語や英語といった大言語が優越する社会のなかで、若い世代が母語を話せなくなり、話者の高齢化が進む。これらのことばが「消滅に瀕した言語」と呼ばれる所以である。研究者もことばの保持や復活に尽力しているが、その先行きについては悲観的な見方が多い。そうしたなかで、若い世代が日常会話に母語を取り入れているハイダ語や、公立小中学校で二重言語教育が積極的に推し進められているワラパイ語の状況は、明るい見通しを示してくれる。本書は、本誌(Arctic Circle)に六年に渡って連載された特集「文化をうつすことば」を主体に構成されたものである。本誌読者の方にとって、一度は目を通されたものが多いはずである。しかし、十八のことばをまとめて読むことによって、あらためて環北太平洋地域のことばの多様性や共通性を実感することができる。それぞれの章末につけられた民話も興味深い。
(初出:北海道立北方民族博物館友の会季刊誌 Arctic Circle 50/2004.3.23)