アイヌ語の場合「英和辞典のような感じで使える辞書がいまだに存在していない」という。著者の研究の大きな目標は、英和辞典のように実用的に使えるアイヌ語の辞書づくりである。
それでは辞書をつくるために、アイヌ語話者に言葉についてききに行こう。
ところがそう簡単な話ではない。
突然見ずしらずの人がやってきて、「ちょっとすみませんが、これこれはあなたが話している言葉ではなんというんですか」などときかれて、はたして答えられるものだろうか。
本書は学者の卵が(と、帯には書いてある)アイヌ語話者に、話をきいて、答えてもらえるようになり、言語学者として活躍する約20年間にわたっての話である。
実際の調査方法のひとつに、ことばで説明してもらうというのをあげている。ここに興味深い例がある。雪に関する語について尋ねているとき、話のついでに「ニ プスム ni pus hum」という表現がでてきた。その意味は「寒さで木が凍って内部から破裂する音」。横浜生れの著者には、まさか寒さで木が破裂するとは思いもよらなかったという。こういった語彙は、一覧票の項目を機械的に答えてもらってもでてこず、いろいろ話ができて、その中から得られるものであるそうだ。本書には著者がアイヌ語話者と、そうしたいろいろな話ができるようになるまでの、まさにフィールドワークをした者ならではのさまざまなエビソードが紹介されている。
調査の方法としてもう一つ語の用例を集めるというのがあげられている。そのための手段として、口承文芸のテキストを採録するのが有効だそうだ。アイヌ文学には額文のユカラ(英雄叙事詩)、カムイユカラ(神謡)、ウエペケレ(散文説話)などがある。中で著者はより日常会話に近いと思われたウエペケレを中心に採録している。そして、ウエペケレに多く接するうちに、すっかりその世界に魅き込まれてしまったという。ウエペケレの世界に描かれているのは個々の倫理観にしたがって、自然と共存していくというアイヌの伝統的な精神文化である。
著者は言語学者であるが、アイヌ語の研究を、ただ言語学という学問に貢献するためにだけではなく、アイヌの伝統的な精神世界に誰もがアプローチできるような環境を整備するために行うほうが、より大きな意味を持つのではないかと考えるようになったそうだ。
そうした思いの中での研究成果は、最近「アイヌ語千歳方言辞典」(草風館)という形でまとめられた。約3700語がおさめられているこの辞書で、千歳地方のウ工ペケレの中の語彙を九割はカバーしているという。表紙はラウラウrawraw(コウライテンナンショウ)。熟してはじめて食べられるようになる。クリとジャガイモを合わせたような味になるそうだ。著者が、長い時間と労力をかけて築きあげた、アイヌ語話者との信頼関係を象徴しているのだろうか。
(初出:北海道立北方民族博物館友の会季刊誌 Arctic Circle 16/1995.9.30)