名のみの春

津曲敏郎

 

 「春は名のみの風の寒さや」とは、おなじみ「早春賦」(吉丸一昌作詞、中田章作曲) の一節。今の時期、とりわけ北国では実感をともなうフレーズだ。古来、名(=言)は実(=事)と一体であると考えられたからこそ(言霊思想)、どちらもコトで表わされた。しかし、すでに万葉の昔から、コトバ・コトノハで「言」のほうを区別するようになったとされる。つまり、万事名実ともに一体である(べき)はずが、実際は必ずしもそうではない、というのがまさに「名のみ」という表現に現れている。「言霊」は言わば建前であって、本音の世界ではコトバが独り歩きすることもあるのを昔の人々もわかっていた。

 一方、真名/仮名という呼び方にあるように、「名」は文字をも意味した。前者は漢字のことだが、なぜ漢字が「真」の文字で、カナは「仮」なのか?従来は、漠字のほうが格上だからとか、カナのもとになっているから、という説明で済まされてきた感がある。私見では、この呼び方はマコト(真コト)に対するコトノハ(端←「葉」は当て字)の関係とパラレルであるように思う。マナにせよマコトにせよ、実質(意味)を伴ってこそ本物であって、実質が伴わなければ「仮」であり「端」にすぎないとする点で共通している。つまり漠字は意味を持つが、カナは音しか表わさない。コトバも本来は中味としての意味(コト)を表わすための手段(耳に届く音)のほうを指して「(コトの)端」と呼んだのではないか。しかし、意味あってこそのコトバなので、意味を含めた全体もコトバと言うようになり、意味を伴わない場合をことさらに(幾分の非難がましさを込めて)「名のみ(名ばかり)」「口先だけ」などと表わすようになったと考えられる。

 北方民族にとって、長く厳しい冬に耐えて春を待ち望む気持ちはひとしおである。だからこそ、「名のみ」の春の風の冷たさにも、遠からずマコトの春が訪れる希望をより強く感じ取ることができるのだろう。日本語「春」の語源には諸説あるようだが、(草木の芽が)ハル(張)、万物がハル(発=始まる)はじめ、晴・開・墾などの字があてられる動詞ハルで説かれていて、いずれにも動き始める予感のようなものが感じられる。

 ちなみに英語のspringには「春」のほか、「バネ」や「泉」の意味もあるが、これらはいずれも「飛び出す、跳ねる」というところから来ているようだ。万物が躍動する春への思いには共通するものがあると言えよう。

 

(初出:北海道立北方民族博物館友の会季刊誌Arctic Circle 110/2019.3.22)

2020.3.12

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