北川源太郎さんと初めてお会いしたのは、ジャッカ・ドフニが開館してまもない1978年秋のことではなかったかと思う。前年度から、池上二良先生(北海道大学名誉教授・故人)を代表とする文部省科学研究費による三か年の「オロッコ族(ウイルタ族)の言語文化の総合的実地調査研究」が始まっており、私もメンバーに加えてもらっていた。その調査の一環として、網走に同行させてもらったのが、源太郎さんはじめ当時網走に在住していたウイルタの方たちとの出会いだった。相手が池上先生であっても、私のような駆け出しの若造であっても、源太郎さんは変わらず自然に接してくれた。大曲の市営住宅で家族や親戚が集まって、私たちも一緒にお茶をいただいていたとき、源太郎さんが「ハチミチ(蜂蜜)おいしいよ」と勧めてくれた言葉が耳に残っている。そう言えば、釧路の佐藤チヨ(ナプカ)さんのところでも、「チマガリ先生」と呼ばれていた。ウイルタ語にはツの音がないので、これは日本語のウイルタなまりということになるだろうか。今となっては懐かしい響きだ。
ジャッカ・ドフニを案内してくれた帰り道だっただろうか、問わず語りに「自分はこれまで日本人になろうとしてきた。でもこれからはウイルタとして生きる」と静かに語ってくれた。それは源太郎さんが「三つの小さな夢」として語っていたことをひとまとめにした言葉だったのかもしれない。夢の一つが形になったのがジャッカ・ドフニだったが、その建物で人知れず眠るように息を引き取ったのは、その六年後だった。源太郎さんを最後にお見かけしたのは、佐藤チヨさんのご主人の葬儀が釧路で営まれたおり、チヨさんを気遣っている姿だったが、そのわずか四日後に帰らぬ人となってしまった。