3. 川村先生への言葉
このノート以外にも、源太郎さんはカナ書きのウイルタ語を残している。池上先生への私信などにもそれは見られ、ウイルタ自身が実用的な目的をもってウイルタ語を書いた先駆的な例と言えよう。公刊されたものの一つとして、オタス教育所での川村秀弥先生の思い出を記した文章がある(ゲンダーヌ1983)。日本語・ウイルタ語両文で併記されたこの文章からは、川村先生が「むちをもって」きびしい指導にあたった半面、「父親のような」やさしさでオタスの子どもたちから慕われていた様子がうかがえる。「今になって思いますと、とても立派な人だったと思います。ランプ生活で自分の一生を私達オタスの人達の為に尽くして亡くなりました」とその人柄と行いを称え、「教え子の私には、今なんにもして上げられませんことが、とても恥ずかしいです」と自分を責めるような言葉まで述べている。それに続けて、「先生、これからさきの私達の健康と、戦争のない平和な国で私達がこれ以上少なくなりませんよう、平和を祈ってやすらかにねむってください。御冥福をお祈りします」と結んでいる。「平和」の語を繰り返しつつ、「私達がこれ以上少なくなりませんよう」と願う部分には、国家間で翻弄された少数民族としての切なる思いが込められているように思う。ちなみにウイルタ語でも「ヘーワ」の語を使っているが、平和に暮らしてきた少数民族の人たちにとって、ことさらにその状態を表わす単語は本来必要なかったということだろうか。
4.夢の続きのために
ウイルタとして生きることを決意した源太郎さんの三つの小さな夢 ― 里帰り(サハリン同胞との交流)、戦没者慰霊碑の建立、そして資料館ジャッカ・ドフニの建設 ― は存命中にひとまず果たされたようにみえる。しかし、いずれもそれで終わり、という性格のものではなく、それを後の世代に引き継ぎ、発展させることを源太郎さんも願っていたことだろう。ジャッカ・ドフニに関しては、いろいろな事情で閉館を余儀なくされたが、そのすべての資料を道立北方民族博物館が引き継ぐこととなった。形ある資料だけでなく、源太郎さんの思いもしっかり引き継いだと言えるようでありたい。
参考文献
ゲンダーヌ、D. 1983 「川村先生をしのんで」池上二良(編) 1983 『川村秀弥採録「カラフト諸民族の言語と民俗」』(北海道教育委員会/網走市北方民俗文化保存協会):78-80
池上二良(編)1986『「ぎりやーく・おろっこ器物解説書」/北川源太郎筆録「ウイルタのことば」(1)』北海道教育委員会/網走市北方民俗文化保存協会
池上二良・津曲敏郎(共訳解) 1988,1990,1991 『北川源太郎筆録「ウイルタのことば」』(2),(3),(4)北海道教育委員会/網走市北方民俗文化保存協会
写真は北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニポスター