人と人の出会いはいつも不思議な偶然に満ちている。あとで振り返ると、まるでそうなることを運命が巧妙に仕組んでいたかのような思いにとらわれることがある。
1996年、6年ぶりのロシア極東に出かけてみる気になったのがそもそもの始まりだった。前回アムール流域の調査にわれわれを率いてくれた黒田信一郎先生亡きあと、無意識のうちにもその空白をうめる時間が必要だったのかもしれない。その秋、たまたまウデヘ族狩猟文化調査のグループ(佐藤宏之代表)に同行する機会を得て、初めてビキン川流域のウデヘの村クラスヌィ・ヤールを訪れた。メンバーはすでにウデヘの調査を重ねていて、それぞれの持ち場ができていたので、新参の私だけがインフォーマント探しから始めなければならなかった。ロシアでの調査のブランクもあって、いきなり古老から聞き取りというのも正直なところ荷が重い。そこで紹介してもらったのが、下宿先の主人の兄で、退職した元校長先生という人だった。学校の先生なら出来の悪い生徒に教えるのもお手の物だろう、というわけだ。しかも現役時代には手作りの教材でウデヘ語教育を試みたほど、自分の言語には思い入れのある人だ。生徒たちは彼の熱意とは裏腹に、せっかくのプリントを紙飛行機にして遊んでいたと、あとで聞かされたが、こっちにはウデヘ語を学ぶ気持ちだけはあるので、何とか受け入れてもらえた。早速、この日本からウデヘ語を習いに来た生徒のロシア語さえおぼつかないのを見てとると、さすがは元先生、辛抱強くゆっくり繰り返してくれたり、いちいち紙に書いてくれたりした。
こうしてアレクサンドル・カンチュガ氏(1934年生)とのウデヘ語をとおした付き合いが始まった。基礎語彙調査と例文の収集が一段落したところで、分析のためのちょっとしたテキストでも取れれば、と軽い気持ちで、子供のころの思い出話でも書いてもらえないか頼んでみた。彼はロシア文字を使って自分なりの書き方でウデヘ語を書くことができる。こういうことができる人はめったにいない。ロシア語の訳もつけてほしいという、私のわがままな希望も含めて、彼は「やってみよう」と承知してくれた。そして数日後には、左にウデヘ語、右にロシア語を配した数ページ分のノートを受け取った。それが彼の長い物語の第一章となった。
「いつのことだったのだろう?まるで昨日のことのようだ…」という印象的な出だしに続いて、初めて一人歩きをしたときの遠い記憶からそれは始まっていた。幼児が母の手を離れて第一歩を踏み出すときの不安、無事家にたどり着いたときの誇らしさ。そんな、だれもが記憶の片隅にそっとしまってあるような、どこかしら懐かしく切ないようなエピソードが臨場感あふれる筆致で描かれている。それはまた自我の目覚めとこれからの人生の歩みを象徴するプロローグのようにも読める。これは私の考えていた単なる言語資料をはるかに超えている、と直感した。言語学者なら中味よりもまず言語形式に関心が向くべきところだが、それよりも60年前のウデヘの暮らしぶりを「昨日のことのよう」に語る作品の世界に引き込まれていった。すぐさま続きを求める私に、彼のほうでも永年心にあたためてきた思いがあったのだろう。堰(せき)を切ったように、文字で埋まったノートが矢継ぎばやに手渡され、整理と読解が追いつかないほどだった。書いてくれた分については、ウデヘ語朗読の録音をとり、ウデヘ語やロシア語訳の疑問個所についてできるだけ教えを受けたが、短い滞在期間ではとても間に合わない。それは書き手も同じとみえて、残りは郵便で日本に送ってもらうことを約束して秋色に染まる村をあとにした。