奥さんと二人の年金生活とはいえ、村の生活は忙しい。畑仕事に牛の世話、山菜やキノコの採集、冬に備えて薪の準備、魚獲りはもちろん、ときには仲間と狩猟にも出かける。私がいる間は付き合ってくれたにしても、帰ってしまえば思い出話を書いて送ったりする暇があるだろうか?だから、帰ってしばらくしてから、切手をたくさん貼った分厚い航空便が届いたときには半信半疑だった。封を切ると彼の家の匂いと一緒に出て来たのは、びっしり書かれた原稿の束だ。しかもまだ続くとある。そういえば私たちの滞在中も村は停電続きだった。きっとロウソクの明かりでこれを書いたこともあったに違いない。私との約束を忘れずにいてくれた、というよりもおそらく彼自身が母語で自分の歴史をつづることに情熱を見出したのだろう。そしてそれを読み解くことに私も心を奪われていった。
読めばわからないところもたくさん出て来る。翌年3月それらの疑間点をかかえて、雪まだ深いクラスヌィ・ヤールを再訪した。再会の喜び、疑問点をめぐって語り合うのもつかの間、また原稿の束の宿題をもらって帰路につく。このときは山道の雪が春先の陽気でゆるんで、車が何度も立ち往生した。ようやく山道を抜けたのはもう明け方近く、よれよれになりながらハバロフスクの空港に滑り込んだのは何と出発30分前。当然ながら「ニェット(だめ)」と首を振る係官に、同行の風間伸次郎氏が必死に食い下がってくれたおかげで、なんとか乗せてもらえた。そんな目に会いながらも、その後もおりにふれ届く原稿を読み進むたびに、また行かなくては、という思いに駆り立てられて年に一度の往復を重ねた。
こうして「通信教育」もまじえながら彼の「少年時代」の記録全31章を手にしたのち、一応の整理と翻訳を終えたのは、最初の出会いから4年にもなろうというころだった。今度は私が約束を果たす番だ。いつも行くのは3月の春休みなので、何とか2月に日本語訳の出版を間に合わせた(A・カンチュガ著/津曲敏郎訳『ビキン川のほとりで-沿海州ウデヘ人の少年時代』北海道大学図書刊行会2001年2月刊)。表紙には彼の書いたスケッチをあしらった。手渡された本に頬擦りして、彼は喜んでくれた。しかしまだ約束の半分しか果たしていない。彼自身とウデヘの同胞たちのため、そして私自身を含む言語研究者のために原語版を刊行しなければ、せっかく母語でつづってもらった意味がない。その間にもこのウデヘ語の先生はもう次の「青年時代」の執筆を始めていて、なまけ者の生徒をあわてさせている。