大山鳴動
「泰山」とも書く、と辞書にはあり、いかにも中国の故事っぽいが、意外にも古代ローマの詩人ホラティウスの詩の一節がもとだという。「鼠一匹」と続く部分、ラテン語原文でもネズミmus(=英mouse) は確かに単数形なので、訳としては正解だが、山montesのほうは複数形で、「大山」からイメージされるような孤峰というわけではない。ホラティウスは紀元前の人で、古代都市ポンペイを壊滅させた大噴火(紀元後79年)は知らなかったことになる。知っていたらこの名言は生まれなかったかもしれない。このネズミの語に指小辞が付いたmusculus「小ネズミ」は同時に「筋肉」の意味をもち、英語muscleの語源でもある。これまた意外な結びつきではあるが、形状ないし動きをたとえたものか。ちなみに日本語のネズミは「盗み」からとも「根棲み」(根は暗所の意)からとも言われている。
野ネズミに対して家ネズミという分け方があるぐらいで、古来人間とのかかわりは深い。日本でもひと昔前までは、たいていの家庭に、金網製やバネ式のネズミ捕りやら、ネコイラズという名の殺鼠剤が置いてあったりした(最近ではネコを寄せ付けないためのものもこう呼ばれることがあるようだ)。1年ほど前、わが家の母屋続きの車庫兼物置にネズミが出る、と家人が騒ぐので、早速ホームセンターに行ってみると、今は粘着シートが主流とか。説明書には、ネズミは用心深く賢いので、なるべく広く敷き詰めて、根気よく試すべし、とある。人間が誤って踏んでも厄介なので、壁沿いを通り道とにらんでセットし、チーズを砕いたのを撒いておびき寄せることにした。あまり賢いネズミではなかったのか、結果は仕掛けたその日の晩にあっけなく現れ、ささやかな狩猟民気分は束の間に終わった。
家ネズミのなかには、都会の暖かいビル暮らしを選ぶものもある。モスクワの某老舗ホテルの一室で、同行の研究者仲間数人と談笑していたときのこと、視界の端を黒いものがノソノソと横切った(ような気がした)。一瞬の沈黙のあと、「今の見たよね?」と錯覚でなかったことを互いに確認してから、あらためてそのたくましさ(と同時にロシア的おおらかさ?)を実感した。恐竜絶滅時代さえ生き延びて、(人類を含む)現代の哺乳類へと進化のバトンをつないだのはネズミのような小動物だったと見られている。ちなみに英語でmouse and manと言えば「あらゆる生き物」の意。夜行性で人目につきにくいため、今ではたま に姿をさらしてしまうと人間界は大騒ぎ、さしずめ「鼠一匹で大山鳴動」といったところか。