齋藤君子

ヤランガに雁のとまる時 北方民族の語り4~シベリア先住民族と八百万の神々

はじめに

 「日本には自然界のありとあらゆる場所に神々が宿るとする信仰があり、人びとは自然と調和して生きてきた」とはよく耳にする言葉である。しかし、ヨーロッパでもキリスト教が普及する以前はさまざまな精霊たちが活躍していたし、キリスト教を受容して以降も森の奥や水辺には精霊たちがひっそりと生きている。ニ一世紀の現在も、精霊の存在を信じている人は珍しくない。ロシアでもそうである。

 ましてウラル山脈を越えたシベリアの地では、いたるところに八百万の神々の息づかいが感じられる。ツンドラやタイガはもちろんのこと、博物館や学校のような近代的建物にさえ、さまざまな精霊たちがいる。だから人びとは川を往来するとき、深い淵に差し掛かると、必ずボートを止めて川の主にささやかな捧げものをする。森に入れば、森の精霊たちを驚かせないように気を配り、大木の根元に刻みタバコや食べ物を置いて祈りを捧げる。こうしてシベリアの人たちは自然界の精霊たちと良い関係を保つよう努めてきた。

 ところが近年、シベリアの大地は機械文明によって容赦なく蹂躙され、深刻な状況に追い込まれている。石油、ガス、金属など天然資源の豊富なシベリアの大地はあちこち掘削され、動物たちの住処は敷設されたパイプラインによって寸断され、自由な行き来が妨げられている。森林の伐採が進んで川の水位が下がり、川を主要な交通手段として利用してきた猟師たちの往来を困難にしている。狩猟、漁摺、トナカイ飼育といった伝統的な生活スタイルを維持することは、もはやきわめて難しい。

カズィム村の訪問

 2013年の夏、西シベリアのハンテ民族が住むカズィム村を訪ねたとき、出会った男性たちがみな、憂いに満ちた、寂し気な表情を漂わせているのを見てどきっとしたことがある。この村ではエネルギッシュな男たちはすでに伝統的な生活を捨て、都会へ出て石油関連の会社などで働いている。村に残ったのは猟師やトナカイ飼育者としての誇りを捨てきれず、ツンドラで生きていくことを選んだ男たちである。なかには一度村を出たものの、都会の生活に馴染めず村に舞い戻った人もいる。そんな彼らこそ、伝統文化の貴重な担い手であり、シベリアの口承文芸を訪ね歩く私たちのたいせつなインフォーマントなのだが、彼らの末来を考えると掛ける言葉が見つからない。だからなおのこと、彼らの口から森の中で体験した不思議な出来事がポロリと飛び出したときは感激する。

アムール川流域の精霊

 だが、外からやって来た人間がこうした機会に恵まれることはそう多くない。なぜなら本来、この種の話は門外不出とされてきたからである。アムール川流域のナーナイ民族では、自然界の精霊と出会った不思議な体験は身内以外の人間にしゃべってはならないとされてきた。このタブーを破ると、さまざまな災厄が降りかかるからだ。だからこういう話をするのは、若い世代に霊と遭遇した時の対処方法を教えるときに限られる。よそ者には口外しないので、研究者が聞き取りをすることは難しい。そういう話が聞けるのは主に地元の子どもたちなのだ。聖なる物語とされてきた英雄叙事詩も本来はよそ者には語らなかった。

 ナーナイ民族の暮らすアムール川流域では、水中にはプイムールが住み、森にはカルガマが住んでいるとされてきた。プイムールは水の精で、巨大なナマズやワニの姿をしていて、口から火炎を吐き、草原を焼き払う。プイムールは乾いた場所に上がると力を失うとも言われ、日本の河童とつながるところがあり興味深い。カルガマは猟師の守り神的存在で、獣の毛や爪が入った袋を腰に下げているという。その袋を猟師が手に入れると、福が授かるそうだ。その一方、カルガマは人間の女や子供をさらっていくこともあり、善悪両面を併せ持つ存在である。カルガマにさらわれた女が水汲みに出たところを捜索隊のヘリコプターに発見され、救出されたという話が1996年に記録されている。地元の子どもたちがこうした貴重な話を聞き取り、記録に残す活動をしていることは、消滅の危機に瀕していると言われてきたシベリア少数民族の伝統文化にとって、一筋の光である。

 サハリンや沿海州ではかつてこの地に住んでいた日本人にまつわる怪異謬が実話として語られている。そこに登場するのはロシア革命後のシベリア出兵や第二次世界大戦時に当地へ渡った日本人たちであり、歴史の表舞台からはけっして知りえない、悲惨な出来事を我々に伝えてくれている。

 

 ソビエト時代には自然界の精霊や死者の霊にまつわる話は無知蒙昧な迷信であり、遅れた思想であるとされて排斥されてきたが、この種の話にこそ、シベリアの繊細な自然の中で生きてきた人びとの知恵が詰まっており、彼らの心が投影されていると私は考えている。日本では近代化の波の中で山の神や山姥、天狗や河童が姿を見せなくなり、それと時を同じくしてニホンオオカミやニホンカワウソなどの貴重な動物が姿を消した。世界情勢はどこを見てもキナ臭い。この先、我々人間が過去の愚かしい過ちを繰り返さないために、豊かな語りの世界を復活させ、後世に手渡すことのたいせつさを痛感する。

※「ヤランガに雁のとまる時」は、北方民族の口承文芸とその背景にある自然・社会・文化について紹介するコーナーです。

(初出:北海道立北方民族博物館友の会季刊誌 Arctic Circle 106/2018.3.15)

 

 北方民族の語り1 ~ シベリア先住民族の口承文芸

 北方民族の語り2 ~ シベリアの「猿蟹合戦」

 北方民族の語り3 ~ シベリアの「かちかち山」

 北方民族の語り5 ~ 語りをするとき

 北方民族の語り6 ~ ふしぎの世界

 北方民族の語り7 ~ 食文化

 

 

2020.4.24

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