醗酵食品
チュコトカ半島の海辺で暮らすチュクチャ民族、アジア・エスキモー民族には、コパリギンという肉の醗酵食品がある。昔は鯨肉でも作ったが、現在はもっぱらセイウチの肉で作る。仕留めたセイウチを皮ごと40キロから80キロのかたまりに切り分け、皮を外にして巻いたものを、石を積んで囲った穴倉に入れて醗酵させるのである。穴倉の中は肉が凍るほど低くなく、かといって腐敗するほど高くもない温度に保たれており、いわば天然のチルド室である。ここで肉は微生物の働きによって醗酵し、ビタミン類が増える。野菜が手に入りにくい極北の地では、肉を醗酵させる知恵が人々の健康を守ってきた。
ツンドラでトナカイ飼育に従事しているチュクチャにはヴィルヴィルという醗酵食品がある。これはトナカイの血入りスープを沸騰させた中に、細かく刻んだ臓物と野生のユリ根を入れて混ぜ合わせ、胃袋の中に詰めて発酵させたものである。醗酵した血液とトナカイの胃液の中に砕いた軟骨を入れたヴィルクリルという粥状の料理もある。これらの発酵食品をよそ者がはじめて口にするときは覚悟がいる。V・V・レベジェフ/Yu・B・シムチェンコ著『カムチャトカにトナカイを追う』(平凡社、1990年、71頁)に、食事に招かれたロシア人がトナカイの胃液や血の匂いを嗅いで困惑する様子が描写されている。「胃袋が溶けるに従って、ロシア人はじりじりとあとずさりしていった」そうだ。
民族料理では筆者も苦い経験をしている。ソ連邦が崩壊した1991年、サハリンのニヴフ人集落を訪ねたときのことだ。筆者はかねてよりニヴフの伝統料理モシに興味があり、どんな料理なのか見てみたい、できることなら味わってみたいと思っていた。モシは熊祭りなどの重要な祭りに欠かせないハレの料理であり、たいへん手間のかかる料理だということは承知していた。この料理はカラフトマスかサケの皮を剥いで油に漬けたものを桶に入れてすりつぶし、ドロドロの状態にしたところヘアザラシの脂を加え、さらにコケモモやガンコウランなどのベリー類やユリ根などを混ぜ合わせ、しばらくねかせてゼリー状にしたもので、シベリアには同じような料理が広まっている。
我々の調査に付き添ってくださったガーリャさんに、「モシを食べてみたい」とお願いすると、彼女の親類の女性がわざわざ一日がかりで作ってくださった。長年の願いが叶い、ついに私の前に料理が運ばれてきた。ニヴフの伝統的な模様を彫刻した木鉢いっぱいに、プルンとしたゼリー状のものが盛られ、ゼリーの中に入っている黒いガンコウランの実が透けて見えた。想像以上に美しい料理を見て、心踊った。さっそくスプーンを手に取ってゼリーをすくい、ロに近づけた。とそのとき、強烈な臭いが鼻を突き、私の胃袋が反射的に受け入れを拒絶した。しかし、こちらからお願いしておきながら、一口も食べないわけにはいかない。私は自分の意思とは無関係にあふれてくる涙を懸命に抑え込み、無理やり二口、三口、口の中へ流し込んだ。珍しい民族料理をご馳走になって、これほどつらい思いをしたのはこれが最初で最後の経験である。
以前はシベリアでは調理に塩を用いなかった。魚を干物にするときも塩をしないで天日干しにする。年寄りたちは塩味を「気持ちの悪い味だ」と受けつけない。
ネズミとの交易
ところで、シベリアにはユニークな食料調達法がある。女たちがツンドラヘ行って、ネズミが冬に備えて巣穴の中に蓄えている食料をいただいてくるのだ。これはあくまで盗みではなく、物々交換なのだそうだ。あるチュクチャ人はこう言っている。「わたしたちのところの女性は秋の間ずっと、ツンドラを歩いてネズミの巣穴を捜す。見つけると少し掘り起こして一部を取り、代わりに干し魚や干し肉をネズミのために置いてくる。古いしきたりどおり、『わたしたちはおまえさんたちと交換にきたんだよ』と挨拶する」。
18世紀におけるイテリメンの習俗について記述しているG・ステラーによれば、イテリメンはネズミの穴から略奪するとき、交易に見せかける。ネズミの食料庫からユリ根などからを頂戴するとき、けっして空にはせず、一部はネズミのために残しておく。ネズミは冬に備えて蓄えた食料を根こそぎ奪い取られると、首をくくって自殺することがあるからだ。女たちはネズミの巣穴へ行くとき、自分たちの話をネズミに聞かれないよう、隠語を使って話した。ネズミは人間の言葉を理解し、人間とまったく同じような暮らしをしていると考えたのだ。浜辺にころがっている貝殻はネズミの舟であり、ネズミたちはこれに乗って大河や海を旅するという言い伝えもある。
ところで、この食料調達法はチュクチャ、コリャーク、ブリャートそれにシベリアに住むロシア人の間でも知られている。日本の昔話の世界にもこれに通じるものがある。「おむすびころりん、すっとんとん」の世界である。主人公のお爺さんはころころころがっていくおむすびを追いかけてネズミの巣穴に入っていく。するとネズミがおむすびのお礼に餅をついて爺をもてなし、大判小判をどっさりもたせてくれるという話だ。我が国でもかつてネズミと人間の間柄はもっと近く、対等だったに違いない。
※「ヤランガに雁のとまる時」は、北方民族の口承文芸とその背景にある自然・社会・文化について紹介するコーナーです。
(初出:北海道立北方民族博物館友の会季刊誌 Arctic Circle 109/2018.12.21)
北方民族の語り1 ~ シベリア先住民族の口承文芸
北方民族の語り2 ~ シベリアの「猿蟹合戦」
北方民族の語り3 ~ シベリアの「かちかち山」
北方民族の語り4 ~ シベリア先住民族と八百万の神々
北方民族の語り5 ~ 語りをするとき
北方民族の語り6 ~ ふしぎの世界